お裁きの噺

落語で裁判の噺といいますと「三方一両損」「大工調べ」「鹿政談」「五貫裁き(一文惜しみ)」「匙加減」「城木屋」を私としては思い浮かべます。

今回は私的にかなり上手い裁きだなと思うと同時に現代でもリアルにありそうな噺だなと思う「鹿政談」を取り上げてみたいと思います。

「鹿政談」 あらすじ 奈良の名物といえば、「大仏に、鹿の巻き筆、あられ酒、春日灯篭、町の早起き」なんて言います。鹿は春日大社のお使いで、神鹿(しんろく)です。 徳川時代にはこの鹿に年に三千石の餌料が与えられ、鹿奉行がこの三千石を預り管理していました。

 鹿を誤って殺しても死罪になるので、朝起きて家の前に鹿のつ死骸でもあるものなら、これを隣の家に回しておく、隣の家でもこれを向いの家にというわけで、早起きしないとどんな災難にあうかわからんというので奈良の町は早起きが名物になったそうです。

 中でも朝が早いのが豆腐屋さん。 三条横町の豆腐屋の六兵衛さん、 今日も朝早くから豆腐をつくり、きらずを桶に入れ表へ出します。 「きらず」とは「おから」のこと、「から」というげんの悪い言葉をきらって「きらず」といいます。 豆腐は包丁で切れるけど、おからは切れないので「きらず」。

 表で音がするので外へ出てみると大きな犬がおからを食べている。 六兵衛さん薪ざっぽうをつかみ投げるとうまく犬に当たり倒れた。 近寄って見るとこれが犬ではなく、なんと鹿で死んでしまっている。 そのうちに近所も起き出して大さわぎになり、町役が目代屋敷に届けると役人が来て六兵衛さんを引っ立てて行った。

 そして鹿の守役の塚原出雲と興福寺の伴僧良然が連署して奈良町奉行所へ訴え、奈良町奉行の根岸肥前守の取調べが始まった。

奉行は六兵衛に生まれた地はどこかと聞きます。 他所で生まれ奈良で鹿を殺すと大罪だということを知らなかったという取り計らいで、六兵衛さんを助けようとするのだが、正直者の六兵衛さん、三代に渡り三条横町で豆腐屋をしていると答える始末。 こんどは奉行、鹿の死骸を持って来させ自ら吟味してこれは鹿に毛並みのよく似た犬ではないかと言い出す。 回りの役人、町役もこれには大賛成で、犬を殺しても罪はなく書類は取り下げと言う奉行。  すると塚原出雲、鹿と犬とを取り違えることなどはないと言い張る。 奉行がこれには角が無いではないかと言うと、出雲はえらそうに「鹿の落とし角」の講釈を始めた。
「総じて鹿と申すものは、春、若葉を食し、その精に当たるものか角を落とします。これを鹿の落とし角、こぼれ角などと申して俳諧の手提灯、言葉歌語(このはかご)なんぞにも載っております。角の落ちたる跡をば、袋角または鹿茸(ろくじょ~)などと称え・・・・。」

 

途中まで聞いていた奉行、「黙れ!奈良の奉行を務むる身が、鹿の落とし角、袋角を存知おらぬと思いおるか。俳諧の講釈聞きとぉない。これをそのほうあくまでも鹿と言ぃ張るならば、尋ねんければならぬことがある。鹿には年々、上より三千石の餌料が下しおかれおる。しかるに、その餌料のうちを金子に替え、奈良の町人どもに高利をもって貸し付け、役人の権柄(けんぺぇ)にて厳しく取り立つるゆえ、難渋いたしおる者あまたあること、奉行の耳にも入りおるぞ。 三百頭内外の鹿に、三千石の餌料ならば、鹿の腹は満ち満ちておらんければ相ならん。それを碌様(ろくざま)餌も与えぬまま、鹿はひもじさに耐えかね町中をうろつき回り、畜生の悲しさとて、豆腐屋においてキラズなんぞを盗み食ろぉに相違あるまい。そのほう、これをあくまで鹿と言ぃ張るならば、犬か鹿かはさて置き、餌料横領のほぉより吟味いたそぉか、どぉじゃ! たとえ神鹿たればとて、他人のものを盗み食ろぉにおいては、これ俗類にして神慮にかなわん。打ち殺しても苦しゅ~ないと奉行心得る……。これは犬か鹿か? 返答いたせッ!」

 鹿の餌料の横領を吟味すると言われた出雲、改めて犬か鹿かと問われ、もはや犬と答えるしかなくなった。                                               奉行から角の落ちたような痕があるがどうだ追い討ちをかけられた出雲、それは腫物、できものの痕だと苦しい答え。

奉行 「よくぞ申した。しからばいよいよ犬であるな」                      塚原出雲 「犬に相違ございません」                             奉行 「犬を殺したる者にとがはない。書類は取り下げてよろしかろ。一同の者、裁きはそれまで、立ちませえ・・・・六兵衛、待て。その方は豆腐屋じゃな。・・・きらずにやるぞ」         六兵衛 「はい、まめで帰ります」

「鹿政談」は 別題に『春日の鹿』(かすがのしか)、『鹿ころし』(しかころし)。         元は講釈種だそうです。                                  現・神田伯山先生演をYou tubeで聴くことが出来ますね。                     舞台は奈良で上方落語の演目なのですが、古くから江戸落語でも演じられてきたようです。      近年でも東西で多くの落語家さんによって演じられてますね。                   私は最初に六代目・春風亭柳橋先生演をラジオで聴きました。その後五代目・三遊亭圓楽師、五代目・春風亭柳朝師、四代目・三遊亭圓彌師、関西では三代目・桂米朝師、二代目・露乃五郎兵衛師、四代目・林家小染、現・桂南光師、現・笑福亭福笑師で聞きました。                  奉行が鹿の守役を追い込んで行く件は五代目・柳朝師演に一番の迫力を感じました。         一つの事件から更にスケ―ルの大きい疑惑が浮かび上がるという展開は時代劇、現代の刑事・サスペンスドラマでも時々ありますね。                                現・南光 師は噺の中に「調べに先立って奉行は六兵衛をなんとか助ける手立てはないかと調書に目を通しているうちに『大変な事実』が発覚します。」とサスペンスタッチな 展開を取り入れてます。

「大変な事実 」とは鹿の餌料の横領なのですが。落語のネタが時代劇ドラマに取り入れられているのをよく視ましたが、「鹿政談」が取り入れられたらどんな風に書き換えられてしまうのでしょうかね。     

鹿の守役の塚原出雲(演者によっては藤波河内)は「暴れん坊将軍」なら「成敗」されそうなキャラですね。

お奉行様の名前も演者によって変わるようです。 根岸肥前守とするのはの六代目・三遊亭圓生師演での設定であるが、関西での古い時代には「松野河内守」、三代目・林家染丸師は「松本肥後守」。 三代目・桂米朝師は当初「曲渕甲斐守」だったが、後に実際に奈良奉行を務めた川路聖謨 に変更したそうです。 講談に逆輸入した現・神田伯山先生の口演(木ノ下裕一先生による脚色)も川路を奉行としています。川路というお奉行様は在職中の日誌に、過失で鹿を死なせても罰すべしという風説がいまだにあるのは困ったものだといった記述を残しているそうですね。

現代でも奈良公園の鹿は国の天然記念物に指定されており、故意に傷つけると文化財保護法違反で、5年以下の懲役または100万円以下が科される可能性があるそうです。                実際に2021年に公園内の鹿をおののようなもので死なせた男性が、同法違反罪で懲役10カ月執行猶予3年の有罪判決を受けているそうですね。                             昔は「鹿を殺せば石子詰」の刑といって、鹿を殺した者は、殺した鹿と一緒に生さ埋めにされ、その上から石をたくさんのせられるという、考えただけで恐ろしい刑罰があったそうです。
 奈良の三条通りの東の方にある菩提院大御堂の境内に石子詰の跡があります。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/Minosaku_Ishikozume_at_Bodai-in%2C_Kofuku-ji.jpg/1280px-Minosaku_Ishikozume_at_Bodai-in%2C_Kofuku-ji.jpg
 昔、三作という子供がこのお堂の横の寺子屋で手習いをしていると、春日の鹿がやって来て、廊下にあった手習いの紙を食べてしまったそうです。
廊下にあった草子を食べた。 そこで三作はこらっとばかりに文鎮を投げると、当たり所が悪くて鹿は死んでしまいました。
それで三作は大御堂の東側の庭に鹿と一緒に石子詰に処せられてしまったそうです。

この悲劇は人形浄瑠璃、歌舞伎の「妹背山婦女庭訓 二段目・つづら山の段 芝六住家の段」にも取り入れられてます。

天下の謀反人 蘇我入鹿を倒すために必要な爪黒の鹿の血を入手すべく「禁」を破って爪黒の神鹿をしとめた猟師芝六(実は藤原鎌足の家来玄上太郎)の苦悩。                     そしてその養子の三作という十三歳の少年が自ら罪を被って名乗り出るという話です。

奈良の鹿は現代でも法で保護されているようですが、現在日本の一部の地域では鹿が繁殖しまくって困っているようですね。                                    日本には鹿の「天敵」となる動物もいないのですからね。                    一時期、日本に鹿の繁殖を抑えるべく野生の狼を放とうと言った先生が囂々たる非難を浴びたようですがね。 

 鹿が樹木、農作物に及ぼしている被害の事を考えると何らかの天敵は必要だなと思います。

私も中学校の修学旅行で奈良公園に行った時、頭を下げて「鹿煎餅」をねだってくる鹿たちを見て、可愛いとは思いました。

その一方でこんな話を何かの本で読んでゾッとしたことがあります。               ある女性の観光客がちょっと油断をしている間に開けっ放しのハンドバッグに顔を差し込んで中の札をペロリと食べてしまったそうで。                                その被害金額は49,000円に及んだという。

いやはや「しわいや」 の私にはこの上なく背筋の凍る話です。 また、以前の勤務先の関係で西日本の某県境を車で回っていたことがあったのですが、そこで野性の牡鹿に出会ったことがあリました。   二車線の高速道路の真ん中にうずくまっていたのです。 体長も1メ―トルはあったと思います。                             人間一人で立ち向かってもかなわないのでは。                         薪ざっぽう、文鎮を投げつけた程度ではびくともしないのではと思われるような大きくてタフそうな鹿でした。

今回は「鹿政談」だけを取り上げましたが、今後は「三方一両損」「大工調べ」「五貫裁き」なども取り上げて行きたいです。

コメント

  1. 立花家蛇足 より:

    圓喬も『奈良の鹿』の演題で速記を遺しております。あたくしはまだ記事にはしておりません。奉行を根岸肥前守(安政期に奈良奉行になってます)として、遠山様(いわゆる金さんです)は片腕にだけ彫り物だったが、この根岸肥前守は馬丁(べっとう)彫りなので全身にスッカリ朱入りで彫ってある」とマクラで触れてます。六代圓生は「圓喬さんは『鹿政談』は演ってない」と全集で語りましたが、勘違いでしょう。

    お白洲の噺というと、圓朝の長編物を除くとあたくしのデータベースでは、
    いわゆる政談ものでは『小間物屋政談』『佐々木政談』(池田大助)『帯久』などがありました。
    落とし噺としては『おかふい』『てれすこ』『松山鏡』でしょうか。
    また圓朝の一席物でも『操競女学校 お椀(えん)の伝』『競女学校 お不二の伝』があります。
    圓朝は『お椀(えん)の伝』は新聞連載しましたが、『お不二の伝』は連載しませんでした。圓朝から受け継いだ圓喬が『烈婦お不二』としてこの噺唯一の速記を遺しました。とても良い噺ですが現在演り手がおりません。このお不二さんは長野県で高校校歌にも謳われてます。

    またしてもあたくしのブログで恐縮ですが、『操競女学校』は11回にわたり記事にしました。
    その一回目のリンクはこちらになります。
    https://ameblo.jp/tachibanaya-dasoku/entry-12816368631.html
    長いので年末のお時間のある時にでもお目通りいただけましたら幸甚です。m(__)m

    • ヌ―ベルハンパ―グ より:

      立花家蛇足さん。コメントありがとうございます。
      やはり四代目・橘家圓喬師は演じていたのですね。

      裁きの噺で「小間物屋政談」「てれすこ」「おかふい」「帯久」を忘れていたのは迂闊でした。
      「帯久」は二代目・桂小南師演をナマで聴きました。
      辛口ですが見事な裁きでしたね。

      「操競女学校」は五代古今亭志ん生師演 「操競女学校おゑんの伝」をCDで聴きました。

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